カテゴリ:歴史あれこれ( 22 )

福井城下南の入口

去る11月19日(日)
「語り部」のまち歩き研修会が井上さんの案内で行われました。
赤十字病院前から出発し、みのり地区にあった堤道や江戸時代の川の痕跡を辿りました。

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現在のみのり1丁目には、江戸時代には小さな山がありました。
その山があった痕跡が今も残っています。
旧8号線沿いのみのりにある太鼓屋さん付近ですが少し高くなっているのがわかります。
路地も東側は、山の形に湾曲しているんですよ。
区画整理された土地と少し違う。 
想像力がめらめらと湧きあがります。

ちょうどこの辺は赤坂口といわれ惣木戸がありました。
みなさんで「城下に入る門はどこだろう・川のそばだよね」
と想像や妄想を膨らませました。
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安土桃山時代から創業だという松岡屋呉服店で店主からお話しを伺い
(愛宕坂にある松岡屋吉兵衛の像は、松岡屋さんのご先祖様です。)
松岡屋さんは、初めは松岡で商いを行われていました。
太物といって綿や麻を扱われていたとの説明をいただきました。

次は木田銀座です。
大和紡績や日赤があるので、当時はすごい人でにぎわっていたんでしょうね。
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福井鉄道が今の赤十字前駅が終点駅だったことや
愛宕坂の近くにある安養寺内の東雲寺がこの月見の赤坂という場所にあったこと
宝蔵寺の寝釈迦様を拝見しました。
(寝釈迦さんは涅槃像ではありません。35歳の時のお姿です。)




この日も冷たい雨が降る日でしたので、少しまち歩きには厳しかったのですが
北陸道が当時のものであろう道幅で残っていて、江戸時代を感じるまち歩きでした。
でも、やっぱりお天気がいいともっと妄想する時間もできたのにと ちょっと残念です。


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by fukuinokataribe | 2017-11-22 15:58 | 歴史あれこれ | Comments(0)

幕末の福井藩士

11月11日、18日と幕末の福井藩士をテーマにまち歩きが行われました。
まずは、11日旭地区の模様を

櫻木御門跡
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火産霊神社(ほむすび)
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大森房吉
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芳賀矢一
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岡田啓介と松尾伝蔵
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その1週間後
11月18日(土)は郷土歴史博物館で、特別展「さよなら 江戸幕府」の展示解説を聞いてからのまち歩きです。
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コースは福井神社(恒道神社では、中根雪江 鈴木主税 橋本左内が祀られています)
佐佳枝廼社 幸橋 横井小楠居留宅跡 由利公正宅跡 坂本龍馬歌碑 左内公園等です。) 
雨の降る寒い日でしたが、たくさんの方が参加してくださいました。
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幕末の動乱の中 重要な役割をはたした福井藩士たち

藩士を辿るまち歩きもいかがでしょうか



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by fukuinokataribe | 2017-11-20 10:39 | 歴史あれこれ | Comments(0)

1945年 夏 ソ連軍の満州侵攻と日本人の悲劇

1月29日土曜日に
1945年 夏 ソ連軍の満州侵攻と日本人の悲劇の演題で研修会が
行われました。
まずは、山下さんから山田氏の紹介です。


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本題です。

 昨年、「戦争と少年」という書題で自費出版された山田忠嘉氏は


1945年夏、終戦後の満洲国から帰国された体験を赤裸々に

語られました。山田氏は現在83歳になられ

山田氏がその過酷な実体験から語られた「戦争から得るものは何もない。

ただ、国と国、人と人との激しい憎しみを生むだけである。」との言葉は、

我々語り部が次世代へ語り継いでいかなければならない言葉であると強く思いました。

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身内の方たちや、同胞の方たち、幼い子供たちや女性たちが、

戦争や病魔、外地での寒さや、慣れない暮らしなどで次々と亡くなっていく中で、

本当に身一つで帰国された様子を、時折声を詰まらせながら語られました。

 終戦の年に生まれた私にはとても他人事とは思えない状況で聞いていました。




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山田氏がその過酷な実体験から語られた「戦争から得るものは何もない。

ただ、国と国、人と人との激しい憎しみを生むだけである。」との言葉は、

我々語り部が次世代へ語り継いでいかなければならない言葉であると強く思いました。


by村上






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by fukuinokataribe | 2017-02-08 16:59 | 歴史あれこれ | Comments(0)

ビックリ!

越前出身の継体天皇は第26代天皇ですが、越前で生まれた子供2人も、第27代・第28代と続いているとの事。

初めて知りました。

今頃知ったのは、私だけ?

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                      by 山田 幸代
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by fukuinokataribe | 2016-11-20 21:13 | 歴史あれこれ | Comments(0)

福井の芸術家

福井県立美術館で開催されている岩佐又兵衛展

岩佐又兵衛は、福井興宗寺に滞在し
福井藩主 松平忠直、忠昌に仕えました

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岩佐又兵衛のお墓は福井の興宗寺にあります。

私も観覧に行きましたが、まぁ 緻密な描写に感心しました。

ちょっと おどろおどろしい絵もありましたが、先駆者となって成すのは やはりすごい。

会期は8月28日まで 
よろしかったら見にいかれてはどうでしょうか




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by fukuinokataribe | 2016-08-17 10:58 | 歴史あれこれ | Comments(0)

「由利公正と橋南地区の歴史・産業」に参加して

今回は、6月11日に行われた歴史散歩 「由利公正と橋南地区の歴史・産業」に参加された
「語り部」の内山さんの投稿で~す。016.gif


由利公正を訪ねる 「由利公正と橋南地区の歴史・産業」に参加して

 幕末から明治にかけて多くの功績を残した由利公正、その像が建つ広場からスタートし、
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福井機業の開拓者酒井邸跡、松岡から移って最初に住んだといわれる三岡邸跡、
セーレン、
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木田一里塚、多くの民に慕われた福井藩士鈴木主税の世直神社、
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中野本山、
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009.gif堤道、その他数々の旧跡を教えていただき、
042.gif頭はパンクしそうになりましたが、
017.gif歩いてみて理解出来たことが沢山ありました。

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058.gif32、1℃、紫外線強という天候にもかかわらず、学べて楽しい歴史散歩となりました。
有難うございました。                               内山絹子






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by fukuinokataribe | 2016-06-14 10:14 | 歴史あれこれ | Comments(0)

中根雪江

「中根雪江について」の研修を受けて

1月23日、我々会員約35名は福井市立歴史郷土博物館で館長・角鹿尚計先生の話を聞く機会があった。
テーマーは「中根雪江について」である。
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この話を聞くに先立ち、1階で展示されている「福井の甲冑」を当館学芸員・松村先生の説明を聞きながら見て廻った。16点の甲冑等が展示されている。

甲冑とは、戦乱の中での防備のために身に着けるものだと思っていたが、
それ以外の目的のためにも作られたことが先生の話と展示品を見て廻り分かった。
 
大坂夏の陣で
着用されたとされる2代福井藩主松平忠直の甲冑の胴部分の鉄板に
銃弾が貫通しないかを
試し打ちされたという1センチほどのくぼみの跡がある。

また、初代府中城主の本多富正の甲冑は、
銃弾を受けて表面が剥げた部分がある甲冑も並べられている。
まさに戦場での道具であり見ごたえ十分であった。

その後、動乱のない平穏な時代になると、実際に身に着けることは少なくなり、

飾りとしての甲冑が越前甲冑師などによって作られたと説明があり、

5代藩主松平昌親の所用していたとされる甲冑は、平穏な時代を反映しての華やかで、兜はうさぎの形をしたものであった。

 
幕末の動乱期には、再び実用性の高いものになり、
16代藩主松平春嶽が所有していたとみられる甲冑は、銃弾から身を守るための強固な作りで、
甲冑を見につけた戦場での様子がリアルに読み取れた説明と展示であった。
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 場所を2階講堂に移して、本日の主テーマ「中根雪江について」学んだ。
私自身、今日まで中根雪江に関して余り知識はなかったので本日の講座が楽しみでもあった。
 T・P・P(環太平洋パートナーシップ<Trans-Pacific Partnership>)ではないが先生がホワイトボードに書かれた三つの頭文字
S・F・S(春嶽の命・福井藩の命・尊王思想)とK・R・B(国学者・冷静・ぶれない)で
中根雪江という人のすべてを表した頭文字であろうと思った。
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中根雪江は、16代藩主松平春嶽を「名君」というより「明君」に育て上げた重臣で、
主君に忠誠を誓い生涯を支え続けた福井藩士。
春嶽が田安家より藩主として迎えられると、雪江は春嶽の側近として教育に力を注ぎ、また当時天保の飢饉もあって、窮乏していた藩財政の立て直しに着手した。

最も効果を上げたのは倹約政治で、藩士の毎日の食事は一汁一菜と定め、

藩主春嶽も朝は漬物だけ、昼は一汁一菜、夜は一菜のみとして倹約政策に従い君臣一体となって推し進めた結果財政は改善した。

雪江は国学者平田篤胤の門(篤胤の没後に門人となった)に入り国学を勉強し、
春嶽にも国学とその精神を教えた。

春嶽はその国学に影響を受けた政治家で学門の人でもあった。
黒船来航の時には春嶽は鎖国論を主張していたが、開国論を主張するようになった。

これらも雪江の意見を取り入れたものだった。

福井藩の横井小楠が計画した「挙藩上洛計画」では、中根雪江は上洛の時機ではないと反対を唱え、
藩論は二分し、改革派の横井小楠・村田氏寿らと対立した。

改革派の意見が通り、議論に敗れた中根雪江は蟄居謹慎の処分を受けた。
しかし、この計画は実行されず中止になった。

中根雪江は、71歳で没し、遺骨は東京品川の海晏寺境内の松平家墓地に葬られている。
現在も雪江は、春嶽の近侍として教育し続けているのではないだろうか。

何事にも冷静で自分の意見がぶれなかった中根雪江。

以上のような話をおもしろく分かり易く説明していただき、時には笑いも誘うお話し余韻の残る研修だった。
角鹿先生、松村先生有難うございました。

前田豊彦記(平成28年2月1日)

中根雪江(なかね せっこう ゆきえ)  ゆきえさんでも女性ではありません
男性ですよ。040.gif byふく


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by fukuinokataribe | 2016-02-02 10:11 | 歴史あれこれ | Comments(0)

まち歩き いろいろ

11月は どこもかしこも いい季節だからかイベント満載006.gif
自治会や老人会などのまち歩きに「語り部」さんが大活躍をしました。003.gif
7日に麻生津地区の方がグリフィス館から愛宕坂までを
8日に啓蒙地区の方を美山町へ
9日には金沢の長田町の方々を北の庄と養浩館庭園に
14日は東藤島地区の方を福井城址と北の庄へ
同じく14日中藤島公民館の方々を北の庄から愛宕坂 横坂を通り北の庄まで
15日はみのり老人会の方々を北の庄で
20日には金沢のウォーキングサークルの方を朝倉氏遺跡で

今回はその中で、麻生津地区のまち歩きの様子を
実は私 麻生津地区の住人です。016.gif

参加者の方は福鉄電車で市役所前駅で降り幸橋北詰で合流です。
(電車を利用してのまち歩きですね。 車社会ですので、皆さん電車もあまり利用しないみたい。
電車もたまに乗ると新鮮です。 フクラムじゃないのがちょっと残念でした。)
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今日の語り部さんは井上さんと村上さん
村上さんは、参加者の中に同級生がいらっしゃってビックリ005.gif

次はグリフィス館です。
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ここではマルシェも開催中
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私も物色 ゆずをお買い上げ043.gif
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桜橋を渡りながら桜や河原が桃畑だったこと
川下の九十九橋のお話しを聞きながら左内公園へ
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橋本左内の話を聞き

次は西光寺さんで柴田勝家とお市の方の話です。
絶世の美女をお嫁さんに迎えるのはどんな気持ちでしょうね。
男性の語り部さんは、それだけで、幸せだとおっしゃっていました。
私は 男として武将として自信があるのだろうと思います。066.gif

現代の草食系男子よ 柴田勝家のたくましさと男気を
なんて 思う女性もいらっしゃるのでは039.gif

西光寺を後にし坂本龍馬などが歩いた旧北国街道を歩き水道記念館まで
(水道記念館のお隣の麩市さんは秋バラがきれい056.gif
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次は横坂から愛宕坂まで
みなさん 百坂におののいていましたが025.gif
横坂を歩くということで安堵029.gif

横坂は初めて歩く方が多いですね。

みなさん 眺めがよくて趣のある坂だと言っておられました。
この日は曇りでしたが、晴れると白山連邦がすばらしい。

今の季節は山茶花のトンネルの箇所も

この後橘曙覧記念文学館と茶道美術館へ
美術館では呈茶をいただき 語り部さんと福井の話に花が咲きました。

約2時間のコース みなさん お疲れ様です。

参加者のみなさん とても楽しかった。福井にいてもめったに福井のまちを歩かないから
いい場所があるって知らなかったとおっしゃっていました。045.gif046.gif

私も計画を少しお手伝い。
みなさんに感謝のお言葉をいただいて 幸せです。043.gif

これも日頃からサービス精神旺盛な「語り部」さんのおかげです。 

ありがとうございます。

by fuku

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by fukuinokataribe | 2015-11-27 11:32 | 歴史あれこれ | Comments(0)

グリフィスが見た福井のまちを歩く 橋北編

暖かい日が続いていましたが
ようやく 寒くなってきましたね。

初冬らしいのもいいですが、本音をいうと暖かいとありがたい。

さて まだ 暑さが残る10月24日に

グリフィスが見た福井のまちを歩く 明新館コースが開催されました。

グリフィスがいた頃の町を辿りその頃の行事や町名 人々の暮らしなどを紹介しながら、

多分グリフィスが歩いただろうと思われる場所を巡ります。

出発は以前と同じくグリフィス館です。

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ここから本町通りに向かい歩きます。

本町通りは、以前 とても賑やかだったところ 

きっと グリフィス先生も よく お散歩されたのでは

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旧一乗町

柴田勝家が住民を一乗谷から移住させて住まわせた町です。
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狛屋敷後
この場所は福井の1万石以上の家老が住んでいました。
大きな敷地だったんですよ
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佐佳枝廼社の中根雪江顕彰碑の説明です。
中根雪江は松平春嶽の教育係でした。
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明新館跡
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約2時間のまち歩き

参加者の方から
えー知らなかった  ガイドさんがいるまち歩きは楽しい

のお言葉をいただきほっと安堵しました。

普段の見慣れた町がガイドをつけて歩くといつもの風景じゃなくなるんですよね。

奥行きが広がる。

楽しいまち歩き。

次は自治会さんが行ったまち歩きの様子をお知らせしますね。

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by fukuinokataribe | 2015-11-25 15:48 | 歴史あれこれ | Comments(0)

歴史の見える風景・・〝続編〟『西九州地方』訪問記

 初秋の美しい西九州訪問記の〝続編〟です・・・d0314924_10383964.jpg 
  
  幾つかの日本式寺院に囲まれた丘の上に白く輝く協会が聳えている。各々の寺院の造りも何となく異国情緒を感じさせています。この地方の民衆に浸透していったキリスト教信教の影響の表れとも言えるのでしょうか?。ここに掲載の寺院(写真)は「光明寺」という浄土真宗の寺である。寺の寺歴案内板には、何と!<1592年・越前北の庄城主 柴田勝家 3男「空性」により創建>とありました。ふるさとゆかりの〝人名〟がこんな所で出会える〝歴史のロマン〟を、うれしく感じさせてくれたひと時でした
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 1550年・F・ザビエルが、3度の平戸来訪を記念して建立されたという『平戸・ザビエル記念聖堂』が、日本へのキリスト教伝道のシンボル的≪教会≫として聳えている。
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  以来、キリスト教は長崎から西海を巡りながら島原・天草諸島へと信者も拡大して行きますd0314924_13485733.jpg しかし、ときの権力者豊臣秀吉は外国(ポルトガルなど)による侵略や信徒らによる一向一揆のような反乱また、日本人を奴隷としての売買などを懸念し1587年「バテレン追放令」を発令し圧力を強めて行きます。

 「関ヶ原の戦い」の後やがて、江戸時代に入ると、徳川家康によるキリスト教「禁教令」(1612年)が発令され、キリスト教徒の受難の時代が始まります。



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『島原・天草諸島』訪問は、美しい西海国定公園の島々を眺望する船の旅となりました。
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 ここ、美しい西海の地で、悲しい戦乱の出来事があったとは思えないほど、そこには穏やかな青い海と、美しい島なみがありました。
 領民(住民・キリストか教信徒)が、支配する「藩」に対して起こした反乱《島原・天草の乱》(1637~1638年)である。 特に島原半島南端にあった「原城」での最終決戦では、凄惨極まる結末となった。年若き「天草四郎時貞」を盟主として籠城戦を挑む37,000人に対し、幕府軍125,000人の兵力で総攻撃を掛けたのである。籠城民(女性・子供・老人含む)は全滅し、落城した。
 島原の乱後、幕府は禁教策を強化、鎖国政策を強化して行くことになる。 ただ、こうした出来事を境に、幕府の政策が、武闘政策から文治政策に大きく変わって行ったと云われている。
 余談ですが、この「原城」は、明治維新までつづいた、ふるさと「丸岡藩主」有馬氏の初代藩主の築城に始まったという。





               BY / 「語り部」 Y ・ YAMASHITA
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by fukuinokataribe | 2015-11-13 16:12 | 歴史あれこれ | Comments(0)