人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ふくいの山城 ~三峰城~

今回は、前回紹介させて頂いた一乗谷城の支城の一つであったとされる
「三峰城」を紹介します。三峰城祉のある山は正式には「城山」
ですが、地元の人たちには「三峰山」と呼ばれています。
また「三峯」という地名は、金谷・西袋・上戸口方面から伸びた尾根が
合流していることからのようです。
ふくいの山城 ~三峰城~_d0314924_09000277.jpg
資料は、一乗谷城と4つの支城の位置関係を島しています。
(福井市史 通史編Ⅰ 733頁の図を加工)

ふくいの山城 ~三峰城~_d0314924_09224602.jpg
「三峰城祉」への登り口がすが、県道25号(福井・今立線)が
福井から越前市にかけて通っています。
福井の方から、越前市に向かいますと「戸口トンネル」があります。
平成26年(2014)8月に開通した、新しいトンネルです。
トンネルを過ぎますと約200mで左に上記案内板が眼に入ってきます。
ここを左折して約300mほど進むと旧道の福井・今立線にぶつかります。
そこを左折して、福井の方に約1km進むと右手が登り口になります。
旧戸口トンネル(現在通行止め)の手前50mです。
ふくいの山城 ~三峰城~_d0314924_08563157.jpg
上戸口林道を進みます。車で行けます。
結構、整備された林道ですが、所々は厳しい箇所も・・・
ふくいの山城 ~三峰城~_d0314924_09492243.jpg
それでも、「ホッ」させてくれます。
道路わきには「シャガ」の群生が所々にありました。
ふくいの山城 ~三峰城~_d0314924_08574082.jpg
道路脇の上方に墓地を発見。五輪塔が数体並んでいました。
(大いちょう広場駐車場手前約500m)
平成14年に発掘調査が行われ、多くの五輪塔を確認している。
このうち弘治2年(1556)銘のものには、僧侶の位を示す「権少僧都」
と刻まれており、また、文献によると、このころ三峯寺には少なくとも
14人の僧侶がいたとされ、三峯寺の位置関係からしてこの墓地(遺跡)は、
寺院造営に伴う墓地と考えられる。(案内板抜粋)
ふくいの山城 ~三峰城~_d0314924_14020798.jpg
大いちょう広場手前約300mの案内板です。三峯村の紹介があります。
養老年間(717年)から昭和12年(1937)の歴史があるようです。
「えっ」山崎家が最後の下山??朝倉時代ここを守備していたのが、
家臣山崎さんと伝えられているが・・・
ふくいの山城 ~三峰城~_d0314924_08580065.jpg
さて、大いちょう広場前の駐車場に到着。
林道入口から3kmチョットですかね。約20分かかりました。
駐車場は、車が10台くらいは停められるほど広く整備されています。
ここでは「三峯の寺と城と村」を紹介しています。
ふくいの山城 ~三峰城~_d0314924_08584427.jpg

大いちょう広場を見ていきます。
大いちょうですが、豊かな新緑がこころを和ませてくれます。
天然記念物として、県の指定(昭和48年)受けたころには、
「主幹の根廻りが8m」の巨木であった。
「乳授けの大銀杏」と尊ばれ、三峯村民の誇りであった。56豪雪により、
大きな被害を受けたが関係者の努力により奇跡的に再生した。
古くは、泰澄大師の母親がこの大銀杏の樹皮から乳を頂いたという
伝説がある。(案内板抜粋)
ふくいの山城 ~三峰城~_d0314924_08594989.jpg
子安観音堂の跡地
『越前国名蹟考』には「子安観音堂地内、銀杏大木あり」とあり、
この場所に観音堂があり「聖観音菩薩立像」が祀られていたと
考えられている。
現在は、上戸口町の刀那神社が保管している。
ふくいの山城 ~三峰城~_d0314924_09023920.jpg
大いちょう広場は、野生の花「ハルジオン」が咲き乱れていました。
そこに、蝶「アオスジアゲハ」が・・・
ふくいの山城 ~三峰城~_d0314924_09005236.jpg
さて、登山開始です。約900mのみちのりです。登山道入り口です。
季節的に、今は少し緑が多くなってきました。
ふくいの山城 ~三峰城~_d0314924_14395681.jpg
約100mの階段を登ると「追分地蔵」が四つの分岐を示している。
三峯城跡・鹿俣町・東大味町・三峯村跡である。
ふくいの山城 ~三峰城~_d0314924_14543733.jpg
三峰城跡の方角に登山道を進む。左に「三峯城跡まで730m」の案内板。
ふくいの山城 ~三峰城~_d0314924_14572293.jpg
大手道は尾根を歩く道もあり、その両脇は急峻な地形となっている。
まさに、天然の要害である。
ふくいの山城 ~三峰城~_d0314924_15405663.jpg
虎口に到着。三峰城跡まで100mとある。南北が約100mの城となる。
ふくいの山城 ~三峰城~_d0314924_15430873.jpg
次は、三ノ丸と二ノ丸の間の堀切ですがはっきりと遺構が確認できます。
堀切や土塁・堅堀など当時の遺構が状態良く残っています。
ふくいの山城 ~三峰城~_d0314924_15580453.jpg
主郭に到着です。登り口から約20分です。
頂上には、三角点もあり404.5mと示されていました。
主郭には「脇屋義助卿守戦之地」と書かれた顕彰碑が建っています。
冒頭では、朝倉氏の支城という話でスタートしましたが、
三峰城が歴史の舞台に登場するのは、南北朝期で延元2年(1337)です。
新田義貞(南軍)と斯波高経(北軍)の戦いの最中に
平泉寺衆徒によって築城されたと言われています。
「太平記巻19」には「新田義貞がその弟脇屋義助に兵500余を付けて、
三峰城に派遣した」とあります。
南軍が勢いを取り戻そうとした延元2年末には、この三峰城には、
伊自良勢300余騎、義助勢500余など平泉寺衆徒を併せると1000人近い
南軍勢が終結していたことが考えられます。
新田義貞の一大拠点の一つであり、
義貞にとって命運をかける一つの城でもあったのでしょう。
ふくいの山城 ~三峰城~_d0314924_16060965.jpg
脇屋義助は、新田義貞が戦死した延元3年(1338)閏7月2日からは
南軍の指揮をとります。
崩れかけた態勢を立て直し、翌・暦応2年(1339)7月には、
高経最大拠点である黒丸城を落とし、高経は加賀へ逃亡。
しかしながら、北軍(幕府軍)は、加賀・能登・越中・美濃・尾張
・近江・出雲・伯耆などから軍勢を派遣(太平記)。
脇屋義助は激戦を続けるも、
暦応3年(1340)9月23日居城である平葺城から逃亡(得江文書)。
この時期を前後して、東の尾根(搦手)から攻め上った三山重行
によって、三峰城も落城したものと考えられる。

三峰城の縄張りですが、山頂の案内板に推定図がありました。
現在地とあるのが主郭です。先ほどの堀切の写真が堀切Ⅱです。
大手道から虎口を西に向かい、南に進むことになります。
北に向かって、本丸(主郭)、二ノ丸、三ノ丸と連郭式の縄張りです。
三山氏が攻め上った搦手にも堀切を介して二つの小さな曲輪があります。
ふくいの山城 ~三峰城~_d0314924_16064621.jpg
主郭から見た、二ノ丸、三ノ丸です。
ふくいの山城 ~三峰城~_d0314924_16044406.jpg
何故、新田義貞が、朝倉氏がこの三峰城が必要であったのでしょうか。
主郭からの眺望をご覧ください。
北北東をみれば一乗谷が手に取るように分かります。
御所跡・上城戸朝倉館跡など朝倉氏関係の様子が丸わかりです。
左手の方の心月寺やその近くにあったとされる
朝倉孝景(戦国初代)の屋敷も見えていたのでしょう。
ふくいの山城 ~三峰城~_d0314924_17443223.jpg
北北西方向には福井市街と福井平野そして日本海まで見渡せます。
ふくいの山城 ~三峰城~_d0314924_17474712.jpg
北の方角には「あわら夢ぐるま公園」の風力発電が見えます。
ふくいの山城 ~三峰城~_d0314924_17530162.jpg
当時の情報通信である「狼煙」には相当便利な山城だったと思います。

お疲れ様でした。「追分地蔵」の周りに咲いていた山野草。
ふくいの山城 ~三峰城~_d0314924_18124845.jpg
ふくいの山城 ~三峰城~_d0314924_18170898.jpg

by グランパ



by fukuinokataribe | 2020-05-24 18:46 | ふくいの山城 | Comments(0)

福井の歴史をお伝えします。語り部は 新規会員募集中          問合せは         TEL・FAX:0776-35-0855   


by fukuinokataribe